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2022-11-26 ①どこから来て、②どこを目指し、③どこへ行くのか?

ゴーギャン人はどこから来て.jpg

質問します。ゴーギャンの絵にちなんで、「私達は、どこから来て、どこを目指し、どこへ行くのか?」

 

どこを目指すか」の答えは、最高に賢く、最高に各種の能力があり、最高に幸福で、最高に他者に優しく、真善美を備えた人格円満な人間に成ることを目指すことと思います。またこれらが人間の生きる目的です。

 

「そんなこと不可能だし、そんな人間はいないよ」とあなたは言うかも知れません。「いいえ」そんな人間は、今までに存在していたのです。

 

その人物は、インドの釈迦です。青年の時に優秀な先生により学問を学び、技芸(ぎげい)(各種の技と芸の道)を学び最高の能力を得ました。しかし、生涯にいつか出会う無情な(いきる)(おいる)(やまい)・死の苦しみを持つ人を見て、

 

それを解決するために最高の修行をして最高の覚りを得て最高の賢者と最高の幸福者になりました。同時に最高に優しく愛の深い人格円満な人間になりました。

 

日本では、江戸時代終わりに農家に生まれた山崎弁栄がいます。山崎の幼年期と青年期に朝から夕方まで農業を手伝い、念仏修行も行いながら、学校も行かず当時高価で最高の大辞典を借りて書き写し、

 

それを用いて独学で国語と漢文をマスターし、多くの書物を読みました。

 

それ迄の厳し修行に加えて23歳の時、筑波山での2ヶ月の最高の修行で覚りを得て最高の幸福を得、各種の能力を得ました。

 

以後も修行もして人格円満な人間になりました。その優しさは、若草やアリも踏まないように遠回りをされるほどでした。

 

けれど、こんなに最高に難しい修行は、不可能とあなたは思うでしょう。しかし、釈迦や弁栄より、もっとやさしく短期の修行で少しでも近づくことは全く可能です。今は100%到達しなくても1%程の少しでも近づけば良いのです。

 

それだけで他の人より優れた人間になることが出来、より幸福になることが出来ます。1~3%近づけば、もう立派な人間です。あなたは、以前より、賢くなり、能力が増し仕事がうまく出来、幸福度が増し、他者に優しくなり人から好かれる人間に変わるでしょう。

 

生きる最終目標さえ決めてしまえば、あなたは、最初の一歩の安心という幸が得られます。調度高い山に一歩一歩登るスタートのように進めます。

人生の最終目標を弁栄は『人生の()(しゅ) (帰着点)』と言い、その本は、宇宙の大元である真如(=ミオヤ、大法身、法身如来、如来)の元から生まれて最終そこへ帰着する旨記載しています。

その進化と人の修養の過程で多くの能力を付けて行くとも。難解ですが、数学と教育学者の岡潔博士も勧めています。

 

「目標は、高ければ高いほど良いです」と田中木又先生が言います。人の精神は、来世に持ち越せるので来世で目標を更に近づけ達成することが可能と言います。

私の先祖図.jpg

 私達の大元の先祖は、現代科学では、38億年以上前に生まれたアメーバですと説明します。アメーバはどこから生まれたのでしょう?

 

それは、太古の海から生まれ、海は、46億年前の地球誕生から、また、地球は、宇宙に漂うガスやチリから生まれ、それは、約138億年前のビッグバンから生まれたと言います。

 

ビッグバンとは、ミクロの点から宇宙が次第に膨張して生まれたことを言います。全く不思議な神技です。

では、この宇宙の始まりビッグバンは、どこから生まれたのでしょう?科学は推論はありますが、定かではなく不明の状態です。たとえ明確化したものが発見されたとしても更にその先の原因が不明となり続けることが起こっているのが科学の実態です。

 

そこで、最高に賢い釈迦と弁栄は、物事の原因と大元で、元々永遠の昔からおられた全能の如来様がこの宇宙を作られたと述べました。

 

如来様は創造主の神仏でしょうか?

はい、その通りで、「キリスト教、イスラム教の創造主の神(ゴッドとアラー)や神道の神も呼び方が違うけれど意味するところは同じと弁栄は言います。

 

「如来」は科学の法則も世に与えていますが、科学よりもっともっと広く深い「(ほう)」というルールを持ち我々をそれでコントロールしています。例えば、法の中には、過去から現在までの無量(限りない多くの数)の出来事が原因で現在の出来事が成り立っているというルールがあり、それを「縁起(えんぎ)」と言います。全ての現象は、 原因や条件が相互に関係しあって成立しているものです。

 

縁起では、自分の現在を良くすれば、未来が良くなります。自分の現在のあり方は、将来にとって大変重要です。

 

また、その過去は、縦軸の過去だけでなく、横軸の世界の影響、つまり、欧米や中国アジアからの世界の経済や軍事力、科学力等の影響も受けて現在の私達の出来事が起こっているという事も「縁起」です。

 

最初の質問、①私達はどこから来て ②どこを目指し ③どこへ行くのか の答えは、如来から生まれて②釈迦や弁栄のような人格者に成ることを目指し、③如来の元に行き着くことが結論になります。


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大正パンデミックと弁栄の弟子

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大正8年のマンガです。食事の時も医者の電話の呼びリンが多いので、逃げだし芝居を見に行き、見つかりマスクで顔をかくして見ていたストーリーです。ほとんどの医者はこうでないかもしれませんが、僅かにいたのか、想像のマンガかは不明です。

 

『さえられぬ光に遇いて』

 著者、熊野好月(旧姓徳永愛子1895~1975行年九十歳)は、大正九年まで活躍された山崎弁栄の弟子で当時学校の教師の時より出遇いが始まり、何ヶ月か随行(ずいこう)(お供として従い学ぶ)の旅をする。弁栄より、学生を指導するように依頼されて、関西を起点とし、それに生涯を捧げる。光明会初代婦人部長であり、岡潔博士の妻、みちき相談相手でもありました。また、東京都の跡見学園大学の創始者、(あと)()()(けい)の友として、大正十二年関東大震災の頃から彼女の仕事を手伝った。

 

 その熊野先生の著書『さえられぬ光に遇いて』(百八十四頁)を一般向けに、難しい所は削除し要点を編集して毎月何年かにわたり(註や解説)を入れてケンレンが紹介します。今回先月の終部を含めた続き2回目です。

本 さえられぬ光に遇いて482x697.jpg
 

親は子を子は親を唯一無上のたよりとし、宝として、この幸福を与えて下さった親様(大親様=仏様)のましますことを知らずにおった私共の上に思いがけない警鐘はうちならされました。

 

当時の私にとっては、余りに無情な余りにも手厳しいものでありました。それは、一家の希望であり光明であった大学在学中の長兄が*流感のため急に倒れたことであります。

 

結核予防会 会報より、 今も売られている書物がある。中身は,1922(大 正11)年に内務省衛生局(現在の厚生労働省)が編纂 した“スペイン風邪”と呼ばれる『流行性感冒』流感の報

 いわゆる“スペイン風邪”は,1918(大正7)年から 1921(大正10)年にかけて世界を覆いつく

 

したインフルエンザ(流行性感冒)の大流行である。世界中で当 時の人口の4分の1程度に相当する5億人が感染した とされ,死者数は1,700万人から5,000万人との推計が ある。

 

本書によれば,日本(当時人口5,600万人)で の流行は,第1波1918(大正7)年8月~ 1919(大正 8)年7月,第2波1919(大正8)年10月~ 1920(大 正9)年7月,第3波1920(大正9)年8月~ 1921(大 正10)年7月の3波に及び,全患者数23,804,673人7935千人/年),全 死者388,727人(致死率1.63%)としている。

 

 

ジョ ンズ・ホプキンス大 によると昨年春 新型コロナウイルス感染症は,世界192か国の感染者 137,214,213人,死亡者2,956,621人,日本では感染者 508,344人,死亡者9,393人(2021年4月13日現在,)であり,“スペ イン風邪”はこれを はるかに上回る。

 

今日のコロナ社会と比べ厳しいスペイン風邪の環境の中で熊野好月先生もその恩師山崎弁栄師もよく5日間泊まり込みの集会を頑張って実施されたことと思われます。その間休憩中は、外に出て日光に当たりなさいとインフルエンザ対策を指導されたとの事です。

 

NHKの国内統計2022.11月までの25ヶ月間の罹患者2261万人、死者数46,981/25ヶ月。致死率 0.21%。大正のインフルエンザの1.63%より1桁少ない。しかし、コロナ後遺症死を含めるともっと高くなるのでは? 

 

続いて中心であった父が、兄を悲しむ余り、兄の忌明けの日に脳溢血を起して、再び立つことの出来ぬ身となったことであります。

これぞ「晴天のへきれき」、残された母を始め世間知らずの私共はお先真っ暗になり、一体どうなるかとただおろおろするばかりでありました。

 

残念ながら、1907年~1910スペイン風邪などその時代の世界的な悪影響で人類の過去からの自然に逆らった悪の行為の結果の報いというのが仏教的な見方。『仏説阿弥陀経』からの仏教用語で「五濁」の悪世という。

(1)(こう)(じょく)は時代の濁りで、戦争、疫病、飢饉(ききん)などの時代的な環境社会の穢れをいう。

実際当時一九~二〇世紀前半にかけて、世界植民地戦争関連など国内外世界的に戦争と流行病の多い世紀でした。しかし、現在もコロナで当てはまると思われます。

 

(2)(けん)(じょく)思想の乱れで、種々の邪悪な思想(偽宗教・政治・メディア)が流行することをいう。

(3)煩悩濁は煩悩の流行をいう。貪(むさぼ)りや怒りや世間知らずな迷いなどがはびこり、人心は乱れ、悪徳の横行する世相をいう。(世界貿易争いの貪りとその闘争の怒り)

(4)(しゅう)(じょう)(じょく)は人間の善行意欲が低下し、心に活気がなく、不健康で、苦労の多い世間となり、同時に人間の質の低下をみる状態をいう。

(5)(みょう)(じょく)は人間の寿命が短くなることをいい、最後には寿命は10歳にまで縮まる。

 

 

2回「なやみの底」

 一家は淋しさと不安と嘆きの声のみに、満されました。ああ、今までの和気に満ちて楽しかった雰囲気は何処へいって仕舞ったのか、夢であったのでしょうか?

人は死ぬものであるという事は知っていましたけれど、私の直ぐそばに死魔の手がのばされようとは、しかも家の中心を抜き取って仕舞われようとは愚かにも夢にも思いもかけなかったことでありました。

 昨日まで快活に談笑しておった兄が,今日は早や呼べど何の答えむない白骨と変りはてて仕舞った。一体**魂の行方はどうなったのでしょうか?

 

一家の嘱望を荷負つての懸命の努力と修得した学問は一体どうなったのであろうか? 

 体と共に消滅したとすれば余りにもはかない事である。またこう考える事は恐しくもございました。自分たちがこうしてあくせくと働いているのは、丁度はつか鼠が車を廻す姿と同じで、じっとしておれば落ちると思ってただ足と手を忙しそうに動かしているが、よそから見れば一つ所にじっとしていて車だけがくるくるまわっている。それと同じ、自分の姿を見出したのであります。

 

一体私は何の為に生きているのか? 何を目的として毎日を忙しく暮しているのか? こうして憶測していても兄のように**死んで仕舞へば万事消滅するではないか、父の様に病気につけば頭に蔵めた万巻の書も腕に覚えた技も何の役に立たぬものになつて仕舞うではないかと考えて来る時、何をする気力もなくなって仕舞いました。

 

**仏教では、死は、肉体・身体の死であり、心の本体は、残りまた、次ぎに生まれる人間の素養に引き継がれ、進化し続ける。生きている時に悪い行いをすれば、それも引き継がれ、退化した動物に産まれ変わることもある。


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