生み育て導く大御親(無量光) 2023.7
生み育て導く大御親(無量光) 2023.7
今回は、山崎弁栄様の著書、『如来光明礼拝儀』の中の「至心に讃礼す」の中の「南無無量光仏」を図も使用して出来るだけ分かり易く説明します。
南 無 無 量 光 仏
十方三世一切の 法報応の本地なる
独尊統摂帰趣に在す 無量光を頂礼す
意味
「南 無 無 量 光 仏」とは、無量光仏様を敬い拝み申上げますで、「南無」の語源は、インドの「ナモ」の尊敬する、(体を)曲げるなどの意味があります。称える時は実際に頭を下げます。
無量光仏は、あらゆる所(=十方)の一切万物の本体であり、万物の産出者、つまり生みの御親である法身と 育ての御親ある報身および人類の導き御親である応身(=人の世に応じて現われて手本を示して帰られた釈迦如来様)の三つの身体の大元(=本地)であります。
その無量光仏は、全てに超えて唯一最も尊いお方(独尊)であり、万物の統治者(統摂)であり、人生修行した私達の最終ゴールの終着(帰趣)点であります。その無量光仏様を私は、五体投地(頂礼)申上げます。五体投地とは、ネパールや中国での仏教信者が地面におでこと両腕と両足を着けて礼拝する最も丁寧な礼拝です。言い替えれば、この上もなく敬いますになります。
その終着(帰趣)点は精神的に完全に悟った仏の世界(仏界)があり、そこには、永遠の平和と最幸福と最高徳(恩恵)があります。その手本を示して下さった方がご在世の時人格円満のお釈迦様で死後は本来のお姿の大御親(親しみの名称)、つまりアミダ仏に戻られたのでありました。
アミダ仏とは、インド古語で、人知では計れないこと(無量)が悟られた仏と言う意味の語源から来ています。そして無量寿仏および無量光仏も仏教経典では同じ阿弥陀仏(元中国語)の意味に使用されています。
私達の人間は、人生修行しながらその理想の境地を目指し努力することが人間の進化の終着点です。私達は以上のことを認識し、お釈迦様の瞑想修行または、山崎弁栄様の弁栄式日本的瞑想である念仏の道を歩むことが非常に重要であります。
ところが、今21世紀では、戦争・過当競争・うそ・だまし等の悪が存在しています。私達人間の心に十の段階の心が存在するからです。それを、十界と言います。
1.地獄:鬼のように人を殺す大悪人の心。
2.餓鬼:飲食などの物に対する欲望を際限なく満たそうとする心。
3.畜生:動物のように多くの本能を持つ心。
4.修羅:戦いを好み競争する心。うその情報を流す心。
5.人間:理性を持つが疑いやすい心も持つ。
6.天人:刹那的喜びが多いが人間より長く生きても寿命がある。
7.声聞:釈迦の教えを聞いたり学んで悟る心。
8.縁覚:独力で仏教の教えを悟る心。
9.菩薩:覚りの求道者の心持つ。ある程度の覚りおよび正しく自在の能力を得ている。
10.仏 : 完全に覚りを得た心と正しく自在の能力と働きを持つ。
1.地獄~6.天人までが無常の世界であり、寿命があり、生き死にを繰り返します。
仏の視点から人間を見たら、私達人間は、我という執着の自我にそって行動しているので間違った行動をしている、赤ん坊が、階段や窓から落ちたり、複数の幼児が玩具等を取り合って喧嘩しているように見えると思われます。
この無常の世界は、消滅現象があり、仏教で「成住壊空」があると言い、
成劫、住劫、壊劫、空劫のことを示します。
劫とはとてつもなく長い時間を意味しますが、短い人の生涯に喩えれば
「成」とは、誕生。青年期。
「住」とは、壮年期。
「壊」とは、老年期であり、
「空」とは、死であります。
となります。自然現象、星や宇宙の生涯にも喩えることが出来ます。
7.声聞から最後の仏までが覚りの世界で、数字の多い順に高い心となっています。
そこで、私達がお釈迦様または、弁栄様の導きの道を歩めば、悪の地獄・戦いの修羅・天人の迷いの心の世界から離れ、仏・菩薩の覚りの世界に何歩か進み平安および最幸福と最高徳(恩恵)に近づけると弁栄様は語っています。