世界平和と続無対光
哲学者・カントとはどんな事を言った人?カントのおすすめの本5冊! - 生活百花 (hatenablog.com)
顔イラストは、上のブログより
1月の31日にラジオ深夜便アーカイブスで
世界はかまいらー(有名人のお墓参りする人)から
今年生誕300年のドイツ哲学者カントの話しを聞いて驚き、調べてみました。
驚いたのは、アインシュタインや湯川秀樹の国際連盟設立案を作る
200年程前の1795年にカントは、計13条を含む『永遠平和のために』という本を出版していたことです。
その条項を3つにまとめて簡単に説明すれば、
常備軍隊を持って国家間で戦争や暗殺してはならない。
他国の財を奪ったり、他国を干渉してはならない。
道徳と政治が一致しなければならない。
私は、もっと加えてほしい条項は、
どんな宗教も人を殺生してはならない(不殺生戒を守ること)。
生命を大切にしなければならない。例えば森林を守ることも含みます。
国連のみ警察軍を持つ。
なぜなら、宗教が殺生を肯定すると、政治がそんな宗教を国内外で利用するからです。
宗教紛争が起こり平和が達成出来ないからです。
前回のブログに続き、五戒について更なる説明を致します。
五戒では、
世界の仏教の中で最も基本で優先される戒(かい・きまり)です。
しかし、世界のメジャーな宗教は、この戒を必須条件としていないので、
また、その国の政治がそんな宗教と一体化しているので、その宗教家に
「正義の戦争」と認めてもらい、牧師や司祭をともなって戦地へ行き
兵隊の心の安定化のために働いていた事実がありました。
敵国の大量破壊兵器を見つけ破壊するのだと言う大義を立てて
始めた戦争の結果、その兵器が無かったという偽りの戦争の歴史がありました。
世界の宗教の定義と戒にこの「不殺生」戒を含めるべきです。
そうすれば、少なくとも何々教何々派の紛争という戦争が起こせません。
兵器を持つ自称宗教団体は、宗教団体ではないと定義づけ、
思想団体と差別化されます。
一方弁栄様の五戒の1番目の
殺す勿(なか)れ汝が霊格(れいかく<霊性の人格>)を。
これは、簡単に言えば、私の霊性(仏性)を汚してはなりません。
高めてください。と言うことです。
汚すとは、道徳から外れることです。煩悩に近づくことです。
霊的世界である「真善美」の
1.真理を深め、真理にそう行動をすること。
2.善を深め、善にそう行動をすること。
3.美を深め、美にそう行動をすること。
その為には、弁栄様が晩年著された『礼拝儀(らいはいぎ)』を拝読し、
このブログで説明してきた12光仏の内容を身につけて礼拝儀の中の
「念仏三昧」の念仏瞑想を実行すると良いでしょう。生活の智慧と慈悲が進み、
精神向上が多いに進むでしょう。
以上
無対光と2023年流行語の「アレ」
無対光と2023年流行語の「アレ」
無対とは、と利益、我と勝ちを求めて競争する此岸(ここ現世)を超えて真善美完全無欠で超理想的な
精神世界である彼岸に参りましょう。そうすれば、対抗・競争することは無く平安な精神世界となりま
す。アレかコレかと迷うことは無くなりますと言うことが「無対」の漢字から受け取れます。
彼岸と此岸とを超理想のあちらの岸と厳しい
現実世界のこちらの岸とも言えます。最近では、
2023年流行語大賞を獲得した阪神タイガー
スの岡田監督が「優勝」の代わりに「アレ」と
言って獲得しました。
監督が「アレ」を用いた理由は、先ずストレスを減らす効果があることと、
2つ目は、「あれ」は、「あちら」より届きやすいし、「これ」は、
すぐに届きやす過ぎるという両距離感を離して決めたと語っていました。
日本人が特異な婉曲な表現に変えたと私ケン蓮は感心しました。
彼岸とは、一般的に話題になるのは、昼と夜の長さが同じ中間の日で
「春分の日」と「秋分の日」の祝日であることと、その日1日は、
先祖のお墓参りする習慣があります。
しかし、本来は、7日間あり、その日の前後3日間の合計7日間です。
戒律という数箇条のルールに従い先祖供養と自分の精神修行を、読経、
瞑想や称名などしながら仏教では、行なっていました。
現在京都の寺院では、その7日間が墓参り期間ですが、檀家・信者の
集まる「彼岸会」は、祝日の中の1-2時間ほどに短縮されている所が多いようです。
弁栄様は、「無対光」で次ぎのように歌っています。
南無無対光仏
絶対無限の光明に 摂化せられし終局には
諸仏と等き覚位をえ 大般涅槃に証入す
大意
無対光仏様に心から尊敬し信を捧げます。
無対光仏様の絶対的で無限の光明による多くの教化の終極には、
諸々<あちこち>の仏と同じ覚りの位を得て、煩悩が消された
不生不滅の境地を覚ります。
説明
この世は、比較してどちらがメリット(利)が多いとかを基準に
して相対的に価値を決めています。しかし、この無対光仏様も
他の12光仏様もその精神的光明(力)は、皆絶対的に定まった
正しいもの、または真善美が基準ですのでメリットが基準では
ありません。
この世を金財優先でなく善意優先にし、正義主義でなく善意優先に
することが重要です。金財が優先であると悲劇は、絶え間無く生まれ、
正義主義だと国によって違いが生まれ、やはり悲劇が生まれます。
あらゆる力を善用しましょう。
例えば、弁栄上人式念仏瞑想を行なえば、無対光仏の力と教化が
働いて智慧と慈悲が生まれ、終極の覚りである真善美へ段階的に
一歩一歩進めます。上記の「摂化」とは、精神的光明により教化が
働いて覚りに進むことです(摂取化益とも言います)。
「等しき覚位」とは、
①仏教で等覚と言い、修行が満ちて、
智慧・功徳が仏と等しくなった位。功徳とは現在、または
未来に幸福をもたらすよい行ないです。
②菩薩の最高位<五十二の位があり、仏に成るまでの段階がある>
が与えられます。それは、真っ暗な
新月から徐々に満月になる喩えと同じです。暗い面が
煩悩で明るい部分が覚りを象徴します。
そのような大小いくつかの覚りを得たいと思う人には、
弁栄上人式念仏瞑想修行で智慧と慈悲が得やすいので、
それからすすめると大変良いと思います.
能力ですので事を分ける作用である理性的な精神の認識力です。
「大般涅槃」とは完全な涅槃を完成されたことで、「涅槃」
とは、煩悩の火が吹き消された状態のこと。すべての束縛
「証入」とは、さとることです。
戒<きまり・おきて>を守ることにより、以上の仏・菩薩の
さとりを得る方法もあります。
戒の項目が5つの戒、10~250の戒迄色々あります。
250項目を守ることは、至難の極みです。その250は、仏と
「等しき覚位」と言えるでしょう。仏教の最もよく言われる
世間の人が順守する徳目としての五戒とは、
1、不殺生(ふせっしょう)(生命あるものを殺さない=不悪。<傷つけないや活かす>)
2、不偸盗(ふちゅうとう)(与えられないものを取らない)<善行をする>
3、不邪淫(ふじゃいん)(みだらな男女関係を結ばない)<道徳倫理的交際をする>
4、不妄語(ふもうご)(いつわりを語らない)<真実を語る>
全て世間のニュースや話題に載るものばかりです。特に現代の
マスメディアは、4番目の不妄語が多く流れていますので、
鵜呑みにせず、本(ツイッター等も)の別のメディアでよく調べることが必要です。
1番目の不殺生は、仏教では一番重要で、動植物と物質の寿命が
短くなるような行為をしないことです。弁栄様は、使用済の紙の
裏側も何枚か貼り合わせて使用しています。
また、植えれば一粒何千粒にもなるお米を一日約一万<数千>粒も
頂き、申し訳ありませんと念仏を称えて懺悔と感謝して頂いています。
そのお米を活かすため、清く正しい仕事や善行のエネルギーにされていました。
以上は、世界中で古くから言われていますが、弁栄様は霊性の観点から
重要である五つの戒を次ぎのように作り述べています。
1、殺す勿(なか)れ汝が霊格(れいかく<霊性の人格>)を。
2、盗む勿れ努力の光陰を。
3、淫する勿れ天魔の使と。
4、酔う勿れ肉と我とに<煩悩と自我とに>。
5、欺く勿れ己のが良心を。
他にも七箇条の「光明家庭の心得」の一つに次ぎがあります。
「忿(いかり)恨み等を発し衝突を為すは光明を失う故なりと
覚知(かくち)すべき事」
以上
無礙光仏ムゲコウブツとなでしこ 2023.10.30
無礙光仏様は
私達に対して如来様(何か偉大なるもの)がどんな働きなさるかを代表しています。その力とは、厳父のような精神と慈母のような優しさです。
「父は照り母は涙の雨となり おなじめぐみに育つ撫子(なでしこ)」(古歌)
進化という教育は、夏の日照りのように正義感旺盛な厳しい父とその怒られた子(私)に、涙の雨でうるおして下さる母の愛情で育つなでし子のお歌です。
撫子とは、我が子を撫(な)でるように かわいがる花であるところから この名前になり、可憐な大和調の色、紫ピンクの花。白色もあります。日本女子サッカーの名前に使用されています。
「無礙」とはさまたげられないと言う漢字の意味ですが、何にさまたげられないかと言うと、悪や煩悩からであり、それらは環境の縁によって起こります。
無礙光の力は、その悪にさまたげられなく、正義を貫き悪や煩悩より自由の身にさせてくださる力のある精神的光です。この荒砥石のような世界に「どんなに悪を押しつけられても、我一人正義を貫かん」の力です。
無礙光の不思議な力には、次ぎの3徳(徳とは優れた働き)があります。
1) 神聖
2) 正義
3)恩寵
1)神聖
中井常次郎著の本では、「如来の正見である。宇宙的良心である」と説明しています。それも1つの方面でありますが、弁栄様は、「神聖に対して吾人は真に威神光明侵(犯)すべからず感あり。」
つまり、神聖は、まことに威神(偉大で神々しい不思議な威力の)光明の感覚を感じるものがあると『無礙光』p.53で語っています。その感じが分れば弁栄様と共鳴出来ます。
神聖剣=聖剣という言葉があるように、つまり、それは神や妖精の不思議な強い能力が与えられた剣のことで、ゲームや海外映画に現れて悪人と戦う武器となって勝利する剣であります。故に、神々しく他の剣がこの善なる美なる神聖剣を犯すことが出来ないという一例です(12/24日訂正)。
また、「神聖の光明の中の行為は如来に向かって真善美の極致に進趣することを得る」と語っています。つまり、神聖の光明中の行為は、真善美の極致に進む行為であると述べています。
以上のようにそれ程重要な意味と中身があります。
2)正義
「正義は、如来の聖意は悪を捨て善を選み、邪を捨て正に帰し、非を避け善に就かしむる勢力なり。故に吾人が此霊性(理性を声優れた性質と能力)に照らさるる時は自然と聖意の如くに如実に如来の聖道に進むことを得。」と上記神聖に続けて語っています。
つまり、如来の聖なる意志は、悪を捨て善を選び、邪を捨て正に帰らせ、非を避けて善につかせる力があります。故に私のこの正義の霊性に照らされる時は、自然と実践的に如来の聖なる正道に進めます。
3)恩寵
恩寵とは、弁栄様引用冒頭のお歌の内容と同じです。それは、
「父は照り 母は涙の雨となり
おなじめぐみに育つ撫子(なでしこ)」
東西の著名な学者や船井・稲盛著名人が「宇宙には意志がある」と語るように如来(宇宙)の聖なる意志、つまり如来の精神進化という教育の意志は、夏の日照りのように正義感旺盛な厳しい父とその怒られた子に、涙の雨でうるおして下さる母の愛情で育つなでし子(私)がお歌の意味です。
以上の内容は次ぎの弁栄様のお歌の中身で、解脱とは、迷い、苦しみ、束縛から解放されることです。
南無無礙光仏
如来無礙の光明は 神聖正義恩寵の
霊徳不思議の力にて 衆生を解脱し自由とす
『如来光明礼拝儀』p.9-10
無量寿仏(ムリョウジュブツ) ビッグバン138億年より長い寿命は存在するか? 2023.8
無量寿仏 ビッグバン138億年より長い寿命は存在するか? 2023.08.27
「 無 量 寿 仏」とは、計算出来ない程長い寿命の仏でありますが、現代科学で分る長いと思われる宇宙の寿命は、ビッグバンから始まった138億年(10の10乗X1.38)と言います。
では、それ以前調べると〇〇理論という説があり、もっと前の時がある説がありました。それは、宇宙すべてが急に縮小し、または、ブラックホールに飲み込まれて無限程に収縮してから再度ビッグバンが始まることを繰り返す、または、そうしていたという説です。
ビッグバン以前と宇宙の動画
また、138億年より更にもっと寿命の長い物質が、世界にないかどうか調べると、有りました。それは、原子の中の陽子で、10X20~24乗と計算されています。
これは、ビッグバンの少なくとも10x10乗、つまり、百億倍以上と、とても比較出来ない程途方もなく長い寿命です。ビッグバン138億より長い寿命物質があったのです。
科学が進めば、更に長い寿命物質が見つかる可能性もあります。科学は「原因があって結果がある」が原則です。物が生まれるには、生むものが在るという原因があるはずです。無限に遡れば、寿命のない有り通しの原因の生み手があると思われます。
さて、「大円鏡智」といって鏡のようにあらゆる物を映し出し、何事も分る智慧を獲得した方である世界の賢人のお釈迦様が言うには、その生み手を「アミダ仏=阿弥陀仏」と述べています。その智慧を持つ現代の賢者山崎弁栄様(1859-1920)も、その著書『如来光明礼拝儀』で以下のように述べています。
南 無 無 量 寿 仏
本有法身阿弥陀尊 迹を十劫に垂れ在し
本迹不ニなる霊体の 無量寿王に帰命せん
大意
初めなく終わりなき、宇宙のあらゆるものを超えて法の身の大御親である阿弥陀尊(仏)は、十劫の昔、法蔵菩薩と名乗られて、修行し、願行成就して浄土の阿弥陀仏と成りました。その修行し浄土の阿弥陀仏と始めなく終わり無い阿弥陀尊は、元々ご実体が同じ大御親でありました。その別名、無量寿仏に心から帰依します。
解説
「南無」は、拝みますという意味です。「本有」とは、初めなく終わりなく元々有り通しの者ということです。「法身」とは、前回「無量光仏」で説明した「生みの御親」の意味ではなく、肉眼では見えぬ法の身という意味で、具体的には阿弥陀仏です。
有名な小説『星の王子さま』で王子は、「かんじんなことは、目に見えないんだよ」と言っていますが、それに合致します。
(阿弥陀尊の尊とは尊称。阿弥陀如来は、哲学的表記。アミダはインド的表記。大御親は親しい呼び名。)
「無量寿仏」とは、始めも無く終わりも無い有り通しで寿命が無量(計れない)仏で、時間を制する特徴のある面を見た呼び名です。その実体は阿弥陀仏も含めて唯一存在の大御親であります。
「迹を十劫に垂れ在し」の「跡」とは、「物事が行なわれたあと」という意味です。「劫」とは、天女が百年に一回地上に降りてきて160km四方の大岩石の上からその衣でなでてその岩石がすり減って無くなる年数を一劫としてその十倍の途方も無い期間です。その期間に
ある菩薩(法蔵)が現われ、我々生きとしいくるものの平和と幸福のために多くの願いを立て、長き劫の期間に思考し、更に大変ご苦労の種々の修行して願いがかない阿弥陀仏となり、極楽浄土で私を待って居られますという意味です。
私のためにその菩薩は、想像を超えるとても長い期間ご苦労の修行をされていたという事です。それが「跡を垂れる」ということです。二千五百年前お釈迦様が私(達)のためにこの世に現われて、ご苦労され、導きの道を説いて下さり、世界の平和と正道を教えて下さったことも「跡を垂れる」と言います。お釈迦様もご実体は大御親です。
山崎弁栄様は、導きに加えて、その人なりに合わせて真善美の技巧向上の能力を与える方法を教えて下さったように思います。明治大正時代、弁栄様は、絵画、書、和歌、音楽等の優れた能力を獲得していました。
「本迹不ニなる霊体の 無量寿王に帰命せん」の「本」とは、始めから有り通しの阿弥陀尊(仏)であり、「跡」とは、有り通しの阿弥陀尊が化身として法蔵菩薩と成って現われ、修行して浄土の阿弥陀仏になった阿弥陀仏で、始めから有り通しの阿弥陀尊と「不二」つまり、別々では無く、ご実体で同じという意味です。
それらのお体は、「霊体」つまり、有り通しの霊性のお体であります。その有り通しの寿の「無量寿」の「王」=無量寿仏に「帰命」つまり、こころから帰依しますと言う意味です。
生み育て導く大御親(無量光) 2023.7
生み育て導く大御親(無量光) 2023.7
今回は、山崎弁栄様の著書、『如来光明礼拝儀』の中の「至心に讃礼す」の中の「南無無量光仏」を図も使用して出来るだけ分かり易く説明します。
南 無 無 量 光 仏
十方三世一切の 法報応の本地なる
独尊統摂帰趣に在す 無量光を頂礼す
意味
「南 無 無 量 光 仏」とは、無量光仏様を敬い拝み申上げますで、「南無」の語源は、インドの「ナモ」の尊敬する、(体を)曲げるなどの意味があります。称える時は実際に頭を下げます。
無量光仏は、あらゆる所(=十方)の一切万物の本体であり、万物の産出者、つまり生みの御親である法身と 育ての御親ある報身および人類の導き御親である応身(=人の世に応じて現われて手本を示して帰られた釈迦如来様)の三つの身体の大元(=本地)であります。
その無量光仏は、全てに超えて唯一最も尊いお方(独尊)であり、万物の統治者(統摂)であり、人生修行した私達の最終ゴールの終着(帰趣)点であります。その無量光仏様を私は、五体投地(頂礼)申上げます。五体投地とは、ネパールや中国での仏教信者が地面におでこと両腕と両足を着けて礼拝する最も丁寧な礼拝です。言い替えれば、この上もなく敬いますになります。
その終着(帰趣)点は精神的に完全に悟った仏の世界(仏界)があり、そこには、永遠の平和と最幸福と最高徳(恩恵)があります。その手本を示して下さった方がご在世の時人格円満のお釈迦様で死後は本来のお姿の大御親(親しみの名称)、つまりアミダ仏に戻られたのでありました。
アミダ仏とは、インド古語で、人知では計れないこと(無量)が悟られた仏と言う意味の語源から来ています。そして無量寿仏および無量光仏も仏教経典では同じ阿弥陀仏(元中国語)の意味に使用されています。
私達の人間は、人生修行しながらその理想の境地を目指し努力することが人間の進化の終着点です。私達は以上のことを認識し、お釈迦様の瞑想修行または、山崎弁栄様の弁栄式日本的瞑想である念仏の道を歩むことが非常に重要であります。
ところが、今21世紀では、戦争・過当競争・うそ・だまし等の悪が存在しています。私達人間の心に十の段階の心が存在するからです。それを、十界と言います。
1.地獄:鬼のように人を殺す大悪人の心。
2.餓鬼:飲食などの物に対する欲望を際限なく満たそうとする心。
3.畜生:動物のように多くの本能を持つ心。
4.修羅:戦いを好み競争する心。うその情報を流す心。
5.人間:理性を持つが疑いやすい心も持つ。
6.天人:刹那的喜びが多いが人間より長く生きても寿命がある。
7.声聞:釈迦の教えを聞いたり学んで悟る心。
8.縁覚:独力で仏教の教えを悟る心。
9.菩薩:覚りの求道者の心持つ。ある程度の覚りおよび正しく自在の能力を得ている。
10.仏 : 完全に覚りを得た心と正しく自在の能力と働きを持つ。
1.地獄~6.天人までが無常の世界であり、寿命があり、生き死にを繰り返します。
仏の視点から人間を見たら、私達人間は、我という執着の自我にそって行動しているので間違った行動をしている、赤ん坊が、階段や窓から落ちたり、複数の幼児が玩具等を取り合って喧嘩しているように見えると思われます。
この無常の世界は、消滅現象があり、仏教で「成住壊空」があると言い、
成劫、住劫、壊劫、空劫のことを示します。
劫とはとてつもなく長い時間を意味しますが、短い人の生涯に喩えれば
「成」とは、誕生。青年期。
「住」とは、壮年期。
「壊」とは、老年期であり、
「空」とは、死であります。
となります。自然現象、星や宇宙の生涯にも喩えることが出来ます。
7.声聞から最後の仏までが覚りの世界で、数字の多い順に高い心となっています。
そこで、私達がお釈迦様または、弁栄様の導きの道を歩めば、悪の地獄・戦いの修羅・天人の迷いの心の世界から離れ、仏・菩薩の覚りの世界に何歩か進み平安および最幸福と最高徳(恩恵)に近づけると弁栄様は語っています。
最後の覚り、超日月光仏 最後の十二光仏目 修正版
2020年11のブログに載せたマンガ伝の一部ですが、弁栄様が初見の科学全書を「ピー」とめくって全内容を把握する場面です。
弁栄様のこの能力は、仏の智慧の能力で、何でも分ってしまう「大円鏡智」という名前の智慧の一種を得ているので、何毎も分ってしまいます。
「大円鏡智」とは、あたかも大きな鏡や水晶玉に何でも映し出すように分るからこの名前が付きました。他にも、弁護士受験用教材の英語の本も一瞬で分ったこともありました。その本に間違いが書かれていたことまで分ってしまいました。英語を習ってないのに。
更に、相手の過去と未来も、うそを言ったことも。人の善悪のこころも。弁栄様が現代におられれば、現代に多く嘘の情報が流れていることを知り、惑わされないと思います。
その正しくものを見る能力を「正見」とも言います。後で説明します。
「南 無 超 日 月 光 仏」
「智悲の日月の照す下 光の中に生活す身は聖意を己が意とし 三業四威儀に行為なり」 (山崎弁栄)
この文の意味は、
如来の智慧と慈悲が太陽と月の光のように照らされるもとで、日本的瞑想の生活をする人は、如来の聖意(みむね=聖なる意志と心)を己の心として、三業(さんごう=身と口と意との行為)の上に、四威儀(しいぎ=行・住・座・臥す)の時、つまり、どんな状態の時も仏の模範的道徳行為を行ないます。日月(つきひ)を超えて永遠に行なうという意味です。
地上の生物、動植物は、皆太陽のお陰で生きています。人は、教育により理性を開発し、科学などの知恵を得ています。今日、教育により科学の進んだ国ほど国際上に優位を占めています。
しかし、倫理・道徳を尊ば無い我利を追求する国やグループが栄えると世界は、修羅の戦いの世界となります。今世界は、まさにその不幸の中にあります。
その倫理・道徳の大元になるものが、慈悲と智慧です。更に慈悲の大元は、仏心(仏性)つまりほとけごころです。人の理性の働きで生まれる「知恵」とは、全く精神的に異なります。
理性は、事を割り切り損得を計算し悪知恵も起せます。これでは、無慈悲な競争や戦争が起きます。その中に生きざるを得ないこの世界は、私達の心と頭脳を磨くための世界と受け止めます。
私達は、理性と霊性(仏心)である智慧の総合力を働かせねばなりません。理性は、より公平な情報源のツイッター等による世界的に幅広い情報で。
例えば、この日本三年間ワクチン接種5回以上ありますが、
①ワクチンにどういう性質の物質が入っていて、ワクチンの専門家は、
②効果があるのか無いのか ③どのように良いまたは、悪い効果があると言っているのか? ➃シェディングは起こらないのか? ⑤世界各国の普及率は?
⑥普及していない例えばインドでは、なぜ罹患者と死亡者が少ないのか?その対策は?
⑦なぜ最近の日本は、世界1ワクチンの普及率が高いのか?
正しい専門家の情報を本で調べることが重要な課題で有り、家族や他人を守り、または困らせない為の義務と責任があります。それを考え実行するのが従来仏教「正見」です。
我利の欲と理性を制御し、無我となりおしみなくそれらを制御出来る精神の分野が「霊性」です。これは、人間に進化して初めて修行や特別な経験によって獲得出来たものです。これによって本当に進化した人間形成が出来ます。
その修行というのは、お釈迦様がされた瞑想・ヨガです。お釈迦様は、金剛心(最硬いダイヤのようなほとけ心)を持って瞑想によって
①天性(動物性)、②理性および ③霊性が円満に調和発達した理想的人格完成(人間形成)をされました。修行完成後は、心の平安、安楽と最幸福、最高徳な恩恵と感謝の生活となりました。
日本では、山崎弁栄様が江戸時代迄には無かった進化した日本的瞑想法である弁栄式念仏瞑想を確立されました。今まで何ヶ月も説明している「十二光仏」を、体系的(秩序だって循環的に真理を現わす光明主義思想として新しくまとめられました。
これら両人は、意志が堅く優秀な人物でありますが、そうでない一般の人間であっても、その程度の瞑想方法によって1%でも両人に近づけば、大きな進歩と能力が得られると思います。
おおよそ50%達成された方が、菩薩様で、調度半月のお月様に喩えられます。半分黒い所は、炎王光仏や清浄光仏のお力で満月の仏に成る余地があることになります。
この「超日月光仏」という仏の光明は、その慈悲と智慧の力で人を正しく活かす段階です。その力は、次ぎのように八つあります。弁栄式八正道です。
1、正見・・・仏智による正しい見識、宇宙的良心で、絶対的不変の真理です。
2、正思惟・・・正見による思い(考え)。仏道に叶う思い。
3、正語・・・正見より出る言葉(真善美へ導く言葉)。
4、正業・・・正見より命ずる行為。仏を作り仏の道を行なう。
5、正命・・・正しい使命に活きること。仏を作り、他者を仏の道に進ませ仏化に導くこと。
6、正精進・・・仏道に叶う行いの努力をすること。
7、正念・・・正見による念(刹那の思いおよび念じる心)。
8、正定・・・仏道と一つになる(心が仏の心と一つに定まり、仏の道を実行すること)。
以上が仏眼(仏の境地)を開いた山崎弁栄様の説いたものです。これは、弟子の中井常次郎氏(京都帝国大学講師)が『礼拝儀』文の中の「至心に讃礼す=十二光仏」の意味をまとめた文章で、
中井常次郎著『如来光明礼拝儀講義』の本、および、それより詳しい十二光仏「如来光明讃の頌」を少し含めて私が分かり易くまとめました。
八正道は仏教の初期スリランカ・インドで説かれたものが有り、その意味とは、かなり異なる所があり、修正されています。
例えば、初期仏教では、正見は「ありのままに見る」と、また、正定は、「心をしずめて一つに集中する」と説明されています。
別件:明治大正のマルチ賢人山崎弁栄様を大変尊敬され、TVでも活躍される批評家若松英輔先生の批評文が弁栄様が組織された(一般財)光明会の月間機関誌に「光明の福音 山崎弁栄を読む」を毎月、6月号から記載されます。
申し込みは、光明会京都事務所0566-41-7752
十二光仏の中の無量寿仏 2023.6
無量寿仏 2023.06.
現代の科学では、この宇宙は、138億年前のビッグバンから始まったと言います。では、その前は、調べると〇〇理論という説があり、どうももっと前の時がありそうです。科学は「原因があって結果がある」が原則です。物が生まれるには、生むものが在るという原因があるはずです。
世界の賢人のお釈迦様がその生み手が「阿弥陀仏」と述べています。阿弥陀仏について現代の賢者山崎弁栄様は、次ぎのように『如来光明礼拝儀』の「至心に讃礼す」で以下のように述べています。尚、お釈迦様も弁栄様も「大円鏡智」といって鏡のようにあらゆる物を映し出せる智慧を獲得しています。
南 無 無 量 寿 仏
本有法身阿弥陀尊 迹を十劫に垂れ在し
本迹不ニなる霊体の 無量寿王に帰命せん
「無量寿仏」とは、始めも無く終わりも無い有り通しで寿命が無量である阿弥陀仏=阿弥陀尊のこと。「南無」は、その仏を拝みますということです。
「迹を十劫に垂れ在し」とは、例えば、天女が百年に一回地上に降りてきて160km四方の大岩石の上からその衣でなでてその岩石がすり減って無くなる年数を一劫としてその十倍の途方も無い期間、ある菩薩(法蔵)が現われ
我々生きとしいくるものの平和と幸福のための願いを立て、思考し、大変ご苦労の修行して願いがかない阿弥陀仏様となり、極楽に居られましたという意味です。菩薩の世界は、人間世界と異なってとても長い年月で行動されていることになります。
「本迹不ニなる霊体の 無量寿王に帰命せん」の「本」とは有り通しの無量寿仏で「跡」とは、菩薩が修行して阿弥陀仏様になった阿弥陀仏でこの二つの仏は「不二」つまり、別々では無い実質同じ「霊体」つまり、霊性のお体であります。その「無量寿の王」=無量寿仏に「帰命」つまり、こころから帰依しますと言う意味です。
次回は
湯川秀樹博士の婦人湯川スミ婦人の支えと平和活動
スミ婦人は大阪の医師湯川玄洋の娘で、湯川博士元の名、小川秀樹を養子として結婚されました。日本舞踊の名手でした。海外でも披露されたのでは?家は医者ですので金持ちのため、貧乏な湯川博士が洋書などを買うお金を支払って頂けたお陰もあってノーベル賞が得られたとも言えます。
湯川秀樹博士の妻湯川スミ婦人は、献身的に湯川博士を支え、戦後共に米国に渡り、アインシュタイン他と湯川博士が結成した世界連邦建設同盟の思想を受け継ぎ、日本国での会長として1963年就任しました。
この写真は、秀樹博士に御抹茶をあげているような写真です。
この写真は、京都大学での湯川秀樹博士の記念会で尾池学長とスミ婦人が写っています。
この写真は、秀樹博士のノーベル賞のメダルか?を持つスミ婦人の写真です。
1966年婦人は、フランス政府より「ダームコマンデール勲章」が授与される。これは、文化勲章のようなものです。
1976年婦人は、『苦楽の園』講談社で出版、世の平和を望み夫婦共に苦楽を過ごした日々の回想録を記載。
1981年夫、湯川秀樹博士が死去74歳。
2006年湯川スミ婦人死去96歳。知恩院の夫の墓に眠ります。その墓は、湯川博士の願いで尊敬する広島大学倫理・哲学の教授であり(財)光明会の代表(浄土宗僧侶)である山本空外上人の墓三角岩の隣にあります。
その経緯は、このブログ2020.09.28 (2022.05.28)に載せています。
湯川博士の自宅は、有名建築家安藤忠雄・長谷工により改修されて、京都大学に寄贈され、移設完成後、家・庭や多くの湯川家所有物や資料が本年2023年に展示される予定です。
たたえようもない素晴らしい仏 無称光仏
南無無称光仏 (称えようも無い素晴らしい仏)2023.3.30
この仏の名は、その漢字を解釈すれば、称えようも無い素晴らしい仏となります。
弁栄上人(以後上人の敬称を略します)は、下記の七五調の歌を作り、その意味を次ぎのように説明しています。念仏瞑想(以後瞑想を省略します)が三昧深くに成って行くと、如来様の智慧と慈悲との光明に照らされて七つの覚りの枝が発芽し育ち、そこにそれぞれ妙なる七つの心の花が咲き、七つのきよらかな覚りの段階が生じますと述べています。
「如来の慈光被むれば
七覚心の華開き
神秘の霊感妙にして
聖き心によみがへる」
その心の花は、神秘な霊感の体験で、人格一変して、仏の子の自覚と成り、心が更生します。その枝と花に7つあり、次ぎの順に高いレベルになって行きます。
1.択法覚支
(とは簡便に言い替えれば、如来様と念仏が何を置いても重要で優先と自覚し、これらを選択し腰をすえる段階の覚り)
自らの過去の罪と業を自覚反省し、疑心と妄想が全く無く、如来様に我を投げ出し、念仏三昧の行を行なえば、「何のかのと思うは無益なり理屈はいらん。ただ一向に念仏すれば良い」と心が定まり、如来様が良いようにしてくださる。いつか見仏させて下さると確信する段階です。
尚、従来の仏教では、ここは、念覚支が気付きという意味を持ち1番先にスタートします(次ぎが択法覚支)。
2.精進覚支
以前如来を愛楽す(愛し求める)とか、こころの妻」(法然上人の歌)と難思光レベルの精進で述べましたが、この段階では、もっと大変強い精進で善導大師は、「全身より汗を流し、眼より血の涙を出す」という程如来様を求めて精進します。
勇猛心と金剛心を持って命惜しまず見仏を目指し、動物的天性を抑え、理性を砕き、いかなる困難も超えて、霊性を研ぎ出す段階の覚りです。理性を砕くとは、理論・学問を空にすることです。学者は、学問の知識が心を占領し、かえって霊性発達の障害になる傾向が大勢を占めます。天性理性の重荷をしょいながら霊性行き登り道を進みます。
3.喜覚支 (喜びの覚りの段階)
精進覚支の行を行なった後の仏三昧の段階で、心が暗がりの夜から山の端に薄明かりが点り如来様という太陽存在が山の後ろに感じられ、心にその喜びが得られる段階の覚りです。尚、正面に置いた如来様の像が実際に光ったり動いたり、妙なる音楽が聞こえたりすることも希にあります。
尚、この七覚支では無く、聖歌歌詞の「念仏七覚支」では、初めて念仏の目標の見仏の段階に到達した事が記載されています。見仏には種々様々あります。
人により現われ方が異なります。弁栄の様々な仏画のお姿通りです。広くは、様々なお姿の仏様、菩薩様、神様、イエス様、マリア様も含みます。心の深さも色々です。そこで弁栄が目標に定めるところが最尊の阿弥陀仏(=ミオヤ、如来、無量寿如来や無量光仏とも呼びます)となります。
4.軽安覚支 (精神が軽やか安らかの覚りの段階)
喜覚支の仏三昧の行の後、私は如来様に乗り移り、天性・理性の重荷が空になり、煩わせるものも私も無くなり、身も心も軽やかに安らかになる覚りの段階です。
5.定覚支 (定めの覚りの段階)
等しい持続的な時間間隔において定まるところの、①木魚打ち込みの身体も、②3枚おろし(ナム・アミ・ダブに切断)の念仏の声も、③心も定まるそうした時に、深い仏三昧となり、見仏が成就し智慧・慈悲の覚りが得られます。真に仏の子となり、仏の心が私の心となり、私の心が仏の心となります。
尚、田中木叉慶応義塾大学教授は、「念仏三昧に生理活動が伴なわねばいかん」(それが横隔膜や木魚打ち込みの動作)と『田中木又先生法話お聞き書き』十二話、柴宅でお話しされています。
但し、例えば、みこさんのように天眼がある方が見仏したと言う場合がありますが、定覚支では、ありません。智慧などの覚りを得ていないからです。
6.捨覚支 (いつでも見仏出来る段階)
注意しなくても、いつでも自然と見仏出来る覚りの段階です。体と心が勝手に働く達人のような段階。
7.念覚支 (すべての念が仏の念になる段階)
念とは、人は1日約8億の念が起こるが、その全てが仏の念(心)となり、全ての行いが仏の行いにかなった行いとなる最終段階の覚りです。
参考
従来仏教の七覚支は以下です。
1.念覚支(sati-sambojjhaṅga) - 気づき(サティ)。心で今の瞬間の現象を自覚すること
2.択法覚支(dhamma-vicaya--sambojjhaṅga) - 法(ダルマ)の中から真実のものを選ぶ
3.精進覚支(viriya-sambojjhaṅga) - 努力
4.喜覚支(pīti-sambojjhaṅga) - 喜びに住する
5.軽安覚支(passaddhi-sambojjhaṅga) - 心身に軽やかさ・快適さを感じる
6.定覚支(samādhi-sambojjhaṅga) - 心が集中して乱れない
7.捨覚支(upekkhā-sambojjhaṅga) - 。対象に囚われない
難思光仏 続3 精神向上のための念仏瞑想と徳川家康
念仏瞑想者、家康の例
徳川家康は、熱心な念仏瞑想者でアミダ如来様と僧侶のお智慧を頂いて戦国の世を平和な世に変えました。念仏は、古く中国と日本で発展した優れた瞑想の一種です。家康の大成の原因は、2人の僧侶の教えです。家康9~12才頃今川の軍師、禅僧の大原雪斎から兵法・帝王学を学んだことは、他の名将に匹敵することです。
次ぎに先祖の寺、浄土宗大樹寺の登誉上人が家康および江戸時代の大恩人です。
桶狭間の戦いで織田勢から狙われ、先祖の墓の前で切腹する直前に登誉上人から叱りつけられた。「武士の目的は、*厭離穢土 欣求浄土であり、その菩薩行をせよ。登誉は命をかけて敵からお前の命を守る」
と言って僧兵を地域から呼び集め寺内に大勢の兵が居るように見せかけて家康を守り抜き、仏教に基づく帝王学を教え、以後の戦場に持参する白木本尊等を与えました。『野上運海大僧正・野上運外大僧正遺文集』より。この出来事は、弁栄も空外も褒め讃えて口にしていることです。大樹寺のホーム頁を参考にしてください。
*(おんりえど ごんぐじょうど)」の元の意味は、「現実の世の中は、穢れた世界であるからこの世界を厭い離れ、次の生において清浄な仏の国土に生まれることを願い求めること」(往生要集)ですが、
登誉上人の教えは、現世を清浄で平和な国土に変えなさいという意味で、家康もそれを目標にして実行し、3百年の平和な世の元を築きました。
家康の日課、念仏の写経祈願1日5万回です。半日はかかるのでは?もう1つの難行の偉業です。
家康の母は、熱心な浄土宗念仏者で家康の幼い頃から念仏に親しむことが出来ました。離婚により家康を人質に渡しても、その愛は、血字写経祈願や好きな菓子送りに形を変えていました。
難思光仏 続3 精神向上のための念仏瞑想(五根五力)
精神向上のために念仏瞑想を実施するとすれば、最初に注意することは、
私達生物が生まれる前、更に宇宙が生まれる前に宇宙を創造した主、元々から存在した「何か偉大な創造主が確かに存在している」という事を信じることが重要です。
学問の内、必ず原因があって結果があると言う科学では、宇宙発生の前の謎は、説けません。科学の上位思考の哲学でも無理です。賢者弁栄の教えの本であればこの謎は解けます。
その創造主を欧米では神と言い、東アジアでは色々な名称がありますが、簡単に言えば「如来」と呼んでいます。宗教により呼び方は異なっても中味は同じです。但し、金に執着し、人権を犯し、人をあやめる宗教は本当の宗教ではありません。関わってはなりません。念仏瞑想で見分ける心眼が持てます。
始めから無量の寿命の如来が存在し、あらゆるものを生み出し続けています。約138億年前から宇宙が発生し、約46億年前からの地球が歴史的に進化してきたお陰で今の自分が存在するということを、全く疑がわないことが重要です。大先達の弟子田中木叉は、「毛すじ程も疑いを起してはならない」と語っています。全智全能の如来の存在をです。
賢者弁栄は、「人生は、修養の学校です。学ぶために弁当を如来が持たせてくださる。宇宙・地球という大舞台を用意してくださる」と言っています。弁当とは、食料です。大舞台とは、太陽というライトに照らされたかけがえの無い地球の大地の山河とかけがえの無い清い空気と水です。それが衣食住につながります。感謝ですね。
日々賢者弁栄著の『礼拝儀』(智慧と慈悲が記してあるお経で感謝の文がある)を称えて言葉に出して感謝すべきですね。そうすると称えた文章の精神が宿り向上します。
賢者弁栄や弟子田中木叉が言うには、日常念仏(瞑想)すれば、精神改善の気づきがあると述べています。または、第六感が働くと述べています。「ああー如来様から御育てを受けた」となります。弁栄の教えの重要点は、このお育てをしてくださる、向上させて下さる事です。
尚、自分の理性から生む知恵では、行き詰まりが多いです。何か偉大なものや如来様から
お育ての気付きが与えられますとそれが励みとなり、念仏精進の力になり、加速します。
賢者弁栄のある有力な弟子は、創造主の神イコール如来については、あらゆるものを創造し生みだすことの創造主の働きに重点を置いていましたが、賢者弁栄は、生んだ後の「御育てが重要です」と語っています。御育てを如来の働きの重要ポイントとしています。如来の深い愛の
御育てにより人生の帰趣つまりゴールの如来のお膝元に歩むのです。そして、念仏の日々を過ごしていると、念仏精神が強固なってきて念仏という根が生えたような状態になります。
日々人生の問題や課題をよく認識した後、それを潜在意識に入れたままにします。念仏瞑想する時は、それを忘れて宇宙一偉大で尊い如来様の膝元に近づきたい、お会いしたいと目的意識を持って専心に念仏に精進し、自分の心をみがくことが大切です。如来様のお姿に心を定めて三昧に入ります。
するとお育ての気付きの解決策や希に智慧が与えられることが起こって来ます。それが励みとなり、智慧発達の力が自分の心に加わって来ます。如来様の慈悲の心も加わってきます。