アインシュタイン・湯川の平和の探求、真・善の行い
物理学者の湯川、アインシュタインと原爆製造の生みの親オッペンハイマーは、第二次世界大戦迄は、核兵器推進派でしたが、日本の悲惨な原爆被害を知ってからは、反対派に変わりました。
特にアインシュタインと湯川は、科学の平和利用核兵器全廃を主張し、核兵器全廃運動を起した。そして、その団体を作り、英国のラッセルやチャーチルなどと世界連邦運動を1946年から起した。
その目的は、
各国の軍備は全廃し、世界警察軍を設置する。
原子力は世界連邦政府のみが所有し、管理する。
「国家」に対してではなく、1人1人の「個人」を対象とするなどでした。
湯川とアインシュタインは、太平洋の水爆実験で日本の漁船乗り組み員とマグロ・かつお等が放射能被害を受け死者が出たことを憤り大変悲しみ、「核兵器は絶対悪だ」
「科学者は、自分が生んだ科学に責任がある(悪用は避け正しく応用せねばならない)と主張します。
被害の船、第五福竜丸展示
当時1423隻2万人以上の漁民の被害があったのですが、じつは、米国空軍海軍にも、また、日本にもビキニから見えない放射能が流れて来ており、かくれた被害があると思われました。
ロシア、中国、フランス、ウクライナでも世界中で水爆実験被害があり、
歴史に隠れた人数は、合計何百万人以上いていたと思われます。
日本と海外の原子炉事故被害も加えればさらに多いです。
現在のロシア・ウクライナ戦争で核兵器使用の宣言が述べられてています。実行されないことを願い、このマンガでも主張しています。
アインシュタインは、「(殺人禁止など徹底的モラルがある真の宗教である所の)宗教無き科学は、不完全。科学無き宗教は、盲目」と主張した。
そして、アインシュタインと湯川は、「殺すなかれの」戒律のある仏教に平和を期待しました。
1955年アインシュタインが亡くなった後、湯川は、その意志をも継ぎ世界連邦運動の5代会長となります。
そして、安全で完全な科学と技術に裏付けされた日本初の原子炉製造を主張しました。
最後に湯川晩年の恩師である山本空外と共に世界平和を願い1981年74歳で亡くなられました。現在、世界連邦政府設立は出来ていませんが、国際刑事裁判所等の部分的な活動が続いています。
尚、仏教の第一位の守るべき重要な戒律は「殺すなかれ」が明確だから平和の徹底が目標になります。この別のカイシャクは、 1.人を生かせ。2.全生命を生かせ。3.万物を生かせ。となります。それを実行した恩師が、山本空外とそのまた恩師山崎弁栄でした。
この思想は、1.人を殺すな以外に2.「なんじの心の霊性を殺すなかれ」と弁栄が戒を作り変えています。
霊性を分かり易く言えば、修行で悟った仏ごごろ、理性を超えた高いレベルの心、良心のこころ、生まれながらに持つ煩悩の心・欲の心の反対の心となります。
戦争の原因は、この欲の心で理性だけでは、抑制が不可能で霊性が良くコントロール出来るものです。なぜ戦争が、なぜコロナが発生するの?に対する回答は、人間の「欲」が、科学を悪用し、仏教で言う「法」(全てのルール)と調和を破壊したからです。
「過激な人に負けない」
ここでは、右翼のような過激な人達が弁栄の教えを反対し、彼らの教に従えとえらい剣幕で迫ったことに対し、弁栄が跳ね返す強さがあったエピソードをマンガにあらわしました。
その過激な人達とは、1914年大正の時代前後に「世界を一つの家とする」の標語で生まれた日蓮宗国柱会という組織です。法華経を拠り所とする日蓮宗に加え、
天皇を頂点にする神道的国粋主義を持つ組織です。満州に進出する関東軍を支援し、その軍人、文化人や政治家が含まれていました。
彼らは、折伏、つまり、彼らの思想が唯一正しいとして、論理で説き伏せて組織に入れようとする活動を広めていました。彼らにとって説き伏せるべき浄土教思想は敵の宗教でありました。
つまり、対立的な思想を持つもので、これでは、戦いは無くなりません。古来よりこの反対の方法があり、それは、摂受(しょうじゅ)で、
摂受(しょうじゅ)とは、折伏に対する反対語。正しくは摂引容受(しょういんようじゅ)といい、その略語である。心を寛大にして相手やその間違いを即座に否定せず反発せず受け入れ、穏やかに説得することをいう(wiki)。弁栄がよく用いていました。
国柱会の荒手活動家が浄土宗に席を置く僧侶弁栄の活動を腕力に訴えても封じ込め、彼らの考えに引き入れようと弁栄の所にやって来たのです。
しかし、弁栄は、弁栄の信じる所を彼らより熱い心で堂々と説き始めるのを聞いた彼らは、弁栄に威厳さを感じたためか、恭しくお辞儀をして退散しました。
尚、国柱会は、宮沢賢治が一度所属しましたが、批判し出てしまいますが、最後に日本政府軍によって、「軍に悪影響を与える」とみなされ潰されてしまいます。弁栄は、当初浄土宗の僧侶として席を置きました。
しかし、その宗派思想より大きく広い思想で西洋哲学・東洋哲学(仏教哲学)・科学・美学・霊性・仏教と仏教以外の宗教を体系的に含んだ真善美の思想でした。それを「光明主義」と言いました。
賢治は科学・文学・音美学を含んだ独自の法華経信者でした。
誘惑・過ちをさとす
今回は、前月の弟子については、弁栄のおつりのお金をだまって使用して鰻丼や焼き鳥を食べたので帰宅してすぐに口をすすいだり、歯磨きして臭いを落とした続きです。
書き物をしている弁栄の肩に鼠が乗っている時に弟子が挨拶のため部屋のふすまを開けた所、鼠が弟子を怖がって逃げます。
修行で(神通力と大円鏡智を)悟っている弁栄には、弟子の悪い行動と嘘が分っていたのでさとす場面です。
マンガの言葉の囲いがウニのようにいくつもトゲ線で囲っている言葉は口に出さない心の思いです。嘘と罪を感じていた弟子は、弁栄の神通力に参ってしまい、以後嘘は、言わなくなりました。
この弟子は渡邊信孝と言って初めは、禅僧の弟子、次ぎに浄土宗管長の弟子でした。管長が弁栄が優れた力量ある僧だからと彼の修行を弁栄に依頼したのでした。
世の中は、不正や嘘が多いです。知者や権威者でも。そして、欲に負けることも多いです。しかし、修行を多くすれば、それが自然と出来なくなるものです。渡邊も弁栄の修行で人間的に変わりました。
「誘惑・過ち」や嘘の見分け、米粒書き等の悟りの能力
「誘惑・過ち」悟りの能力
マンガ伝『真・善・美生活の賢者 山崎弁栄とその影響者達』p.15-16
弟子が弁栄のお金をごまかして鰻丼と焼き鳥を食べて、帰宅して口の臭いを消すために歯磨き・うがいをする場面です。
今の世も本当に嘘を言う人が多いです。人間は、普通中々「誘惑(煩悩)」には勝てないもので、それで過ちを起こし、隠し、嘘を言いますが、悟った弁栄は、大円鏡智(鏡に映すように全て分る悟りの境地)、神通力や読心力などの悟りの能力が有るので分ります。
弁栄を怖がらない鼠と遊ぶ場面はミッキーマウスで有名なウォルト・ディズニー氏の若き頃の鼠と遊ぶエピソードが思い出されます。弁栄は、多くの人種、老若男女、鼠の心迄悟りの力で分り、更に相手に合わせて話しや行動をすること(一歩高いが二歩高く無い心のレベルダウン)が出来ました。それで鼠は弁栄を怖がらないと思われます。
弁栄の筆の速度は、大変速い。先ず普通の人は小さい米粒に極小サイズの漢字を一字ぐらいで6字も書けないが、弁栄は、米粒に6字の名号を一気に600粒書いたことがある。
尚、米粒に6字より多い266字を書いたこともあり、それが皇室に献上されたエピソードをこのブログの2020年10月に載せていますのでご参照ください。
それは、大正8年長野県諏訪市正願寺で600名に米粒名号をプレゼントするため、弁護士希望の学生、柴武三が書き終わった米粒を小さな紙に包むのを他に合計3人で手伝った時、次々と書かれる米粒が早く出来るので、それを包む作業が早すぎて大変だった。
それと弁栄は、会話しながら書いているのに600個目でキチッと筆を止めたとのこと。<私のあくまで推測ですが1個3秒30分程で書いたかも知れません>
「ええっ」と数を疑いもう一度数えなおしたが
やはり、キチッと600個であった。それに驚いた柴氏は、「以来弁栄を心から尊敬するようになった」と晩年柴弁護士は、講演したことが有りました。
柴氏はその時、弁栄に「どうしたらそんな能力が得られるのか」と聞くと「華厳経を自分のもの<悟る>にすればよい」と答えたので柴氏は読んで「読んでもさっぱり分からない」と言うと読書200編で分る」旨と弁栄は答えたといいます。
この記事は、『私が出会った光明主義の人々』石田義信著(光明会本部聖堂販売)のp.111に記載。
募金集め完了と建立(善行) p.13
2021年 12月は、先月の節約,寺建立編の中編の続き後編でこのマンガ本の13頁とその関連情報です。
亡き恩師が願っていた寺を建てるために仮小屋で食うや食わずの極貧の生活をしながら寄付集めを26歳から足かけ7年後の32歳迄行い達成します。
その貧しい生活を見かねて近隣の住民が時々作物を分けてくれるようになり、また、資金の協力者も現われるようになりました。
立派な衣を頂いたり陰ながら支援して頂いた福田知恩院管長は、弁栄が29歳の時に遷化されます。
自分が建てるお寺の寄付集めの最中であったが、浄土宗の学校、現在の大正大学を建てるための寄付集めを浄土宗から依頼され、弁栄は快諾し、他の僧侶と共に関東中寄付集めの旅をし始めます。
遠くは信州にも足を伸ばしました。真冬の屋外の寒さの中でも鼻水を垂らしながら絵や書を曲芸的に書いて配り、寄付を頂きました。
そうこうするうち弁栄32歳の時、自分の寺の寄付集めが達成出来ました。千葉県松戸市当時人口の少ない田舎に松戸の「善光寺」という名でこぢんまりした寺を建てて師匠の願いを叶えました。
そして賢い弁栄は、すぐに留守番役を育て始め、次ぎの活動を始めます。
乞食に貯金を渡す勇気と正義感
正義感が強く忍耐心のある26~32歳の青年期の弁栄、今回は、亡き恩師が願っていた寺を建てるために仮小屋で食うや食わずの極貧の生活をしながら寄付集めを足かけ7年間行います。
最初は、なかなか貯まりません。せっかく貯めたお金を貧しい人に会うとあげてしまいますので、また、1から貯めていました。
そうこうしていると、弁栄の能力を以前より認めていた浄土宗管長(トップ)も寄付活動を助けました。
どのように助けたかというと管長が新しい寺建立と寄付集めに賛同する旨の文章を弁栄に届け、それを皆に見せるというものでした。
尚、弁栄を助けた浄土宗管長とは、江戸時代と明治初期に起こった廃仏毀釈はいぶつきしゃく運動(仏を破壊し釈尊の教を壊す)に反対し政府にその条例をやめるように運動したことです。
また、本来の修行僧復活を主張した福田行誡ぎょうかいで明治の優れた僧侶として有名です。
廃仏毀釈運動とは、江戸時代以前日本は長い間神仏が共存共栄した良い精神文化を持っていました。
徳川家康自身が仏教文化を護り育てたにもかかかわらず,徳川時代の儒教重視者により、また明治政府の神仏分離令により、
神道関係者や反仏教者が仏像を壊す流行が起こります。
また、寺社周辺の寺社所有地(農地等)を明治政府が取り上げました。
薩摩藩や水戸藩の神道や儒教重視派政治家が、極端でした。そして、薩摩藩は、全寺を潰し貴金属を溶かしてにせ金を作り政治資金にしました。水戸藩は寺の釣り鐘で大砲を作りました。
こうした時代は、美術品でもある仏像を壊し富国強兵を進めた一方、フェノロサや岡倉天心が反対運動を起こし法律で仏像をやっと保護しました。
江戸時代までは、修行した優れた僧侶が、偉人や名人に智慧を与えて来た仏教文化がありました。
例えば、書道、仏前社殿に供える所から始まった華道、茶道、焼き物、舞踊と能。剣道・武道の極意の仏教、禅の極意は念仏三昧(東洋的瞑想)とが日本で発展しました。
ところが、昭和時代の大戦後、大変残念なことにキリスト教をすすめたマッカーサーにより完全に神道と仏教は、はずされます。
また、日本的品格・謙遜・美徳の反対の3S文化などが導入されてしまいました。
そこで、その深い東洋精神と西欧科学哲学文化の精神を調和させ、真善美と知育・徳育・体育
円満な人格を持つ人間を目指す山崎弁栄の光明主義を注目する時期になりました。弁栄が語った東洋的瞑想方法で真善美を目指すと良いと思います。
万物の霊長である人類は、その霊性を伸ばすことにより、弁栄のように多くの真善美の能力を開発することが出来ます。
節約して暮らす弁栄様 書画をかく
弁栄が教えを受けた大恩人の大康上人が亡くなり、「もう一つお寺を建てたい」と言われていた上人の願いをかなえるために、弁栄は、恩師が寺を建てようと決めていた田舎の仮小屋で「働いてお金を貯めてお寺を建てよう!」と、
26歳の時、移住を決心し実行に移しました。その場所は、千葉県松戸市五香で当時は人口の少ない農家の多い土地でした。(現在は人口の多い東京都の郊外住居)
お金を節約して貧乏な生活をしました。給金収入が無いので米野菜を農家から頂き、書画を書いてその御礼を貯めました。布団がないのでワラで寝ました。
ある時、お米がないので、前の日のお米洗いで残った、米粉が薄く混じった汁を煮て飲みました。
「お米や野菜をもらえない時もあったでしょう。なんて貧しい生活だったのでしょう。」
山崎弁栄著の書画の1000点以上ありますが、その一例です。
諸悪莫作衆善奉行
尚、松戸市近くの弁栄様が生まれた柏市の柏市郷土資料展示室役所には2019年など定期的に山崎弁栄上人の展示をしていました。柏市郷土資料展示室で開催予定の企画展 | 柏市役所
https://www.city.kashiwa.lg.jp/bunka/about_kashiwa/...
ケン蓮の友人が責任管理者の美術館:
山崎弁栄記念館
https://www.yamazakibennei-museum.com
ケン蓮の住む京都山科地区の秋晴れの景色です。
清浄光が注いでいます。
泊まり込み読書三昧2年間と直弟子柴武三弁護士の言葉3/3
明治16年26歳の時非常に難しいけれど、おシャカ様の大変大切な教えと真理が書いてある東洋の智慧百科事典の『一切経』という本、7334巻(冊)を2年間泊まり込みで読むことに弁栄様は集中しました。
途中で恩師の師匠が亡くなられたのでその時は戻り、100日間報恩のための別時念仏を行ないました。それで足かけ3年必用でした。毎日10冊(巻)も読むことに相当します。東洋の智慧百科のような『一切経』は、
中国の言葉の漢文で書かれているので意味をつかむのが大変時間がかかります。この漫画本の元となった『歴史に埋もれていた賢者 山崎弁栄絵物語』で記載していますが、
現代高校卒業済の常用漢字2100程の漢字知識の佛教大学の学生では、一日1頁読む程時間がかかるものです。 しかし、弁栄様は17歳までに49000漢字を独学でマスターしていました。
それで一日10冊も読み、しかも覚えてしまう大変な「求聞持法」(百日間修行し、その功徳として素晴らしい記憶力が得られる)の速読家です。
ある時、増上寺の偉いお坊さんから「お会いしたいので来てください」という手紙を、使いの人が持って来ました。
その手紙を見た弁栄は、「今おシャカ様の大事なお経(本)を読んでいるのでお会いできません」と返事しました。
その偉いお坊さんは、「なんと勉強熱心な人だ!」と感心しました。
前回8月ブログの直弟子柴武三先生の言葉の続き
21.浄土宗は救我・只一向〈ただ一向に称名し、我を救う〉を教えるが、光明会は度我成仏、起行の用心〈我を彼岸にわたし成仏させる・そのための念仏の心構えを得て実践する〉を教える。
〈浄土宗では阿弥陀仏は〉酬因感果〈修行して阿弥陀仏になる〉の仏に対し、本有無作〈本来有り通しで、人為がない〉の仏の教え。
22. 法身、報身、応身の三身の教えは、現代人に適した教え、辨榮上人の大切な教え。
23.礼拝儀は一切の教えが含まれている。
24. 私達は過去何回も生まれ変わってこの教えに廻り遇えた。大変得難い勝縁だ。これからも何回生まれ変わっても仏道ゴールを極めたい。
25. 若い人がいたら徹底的に教えなさい。
26. お念仏を心の底から称えて下さい。あの辨榮上人の
「不動明王の絵言葉」で
描かれた心持ちで。『辨榮〈弁栄〉上人の御垂示ごすいじ〈大事なおしめし〉と三昧の念佛』の本に載せて説明されています。(本のほしい方は連絡ください。在庫少)
27. 「元気な時は飛び歩き、病の時に始める」と言うとは何てことだと(田中木又先生に)しかられた。
28. 私は田中先生に「弁栄上人から聞いたことをその典拠の引用を含めながら書け」と言われ、何歳に成ったら〈書く〉と言っては延ばして来た。
しかし、先生ご存命中最後に見仏三昧の原稿を見て頂いた。「これならいい。後もちゃんとしておきなさい」と言われた。今、釈尊もその後も誰も書かなかった「無明むみょう」〈真理にくらい無知のことで、最も根本的な煩悩。〉について書いています。
29.辨榮上人は(古代インドの)パーリ語が読めないからだめだという指導者がいるが、それに惑わされないように〈読めます〉。
30. 笹本上人に私の「今回の念仏の行はどうでしたか?」と聞かれたので、これこれと答えると、上人は経典資料を取り出して、「これにこれこれと書かれているから、これこれ」と一々丁寧に教えてご指導下さった。そういう指導者は今いない。
31. 笹本上人は、私達の念仏修行の場所として念仏のある域に達した住職の寺を紹介してくれた。上人は「行っても住職は留守だが奥さんが対応してくれるから」と言われて、行ったらその通りだった。日々念仏修行時に起こったことを住職に聞かれ話すと説明してくれた。
山と寺での念仏修行、弁栄様晩年の数年パンデミック・スペイン風邪(インフルエンザ)対処方法
筑波山を目指す弁栄様
弁栄様は、東京の仏教専門学校で学んだ後、実地実証の念仏三昧(瞑想の一種東洋的念仏瞑想)を大変強い意志と忍耐、そして粗食で実行します。
医王寺で21日間と直後筑波山で2ヶ月一人で厳しい修行をしてこの上ない高い悟り(仏眼)を得ます。
百年前のことですが、弁栄様晩年最後の3年間と翌年は、世界的なスペイン風邪〈=インフルエンザ〉パンデミックで日本にも大流行した年でした。第一次世界大戦の影響で人の交流と密があったとのこと。
大正7(1918)年の8月から大正10(1921)年の7月まで人口の5割を超えて感染者になり、4年間の致死率1.6%でした。
京都在住の弟子の中井常次郎夫婦は完全に感染し寝たきりで動けなかった所、昔の女中が来て助けて死を免れました。この頃多くの人は、マスクをしている。
最初の一波は致死率はかなり低く、第2波は5%で強いインフルエンザに変異しました。
もし、歴史は繰り返すと考え、新コロナも類似するとしたら、感染率と致死率が高い変異のデルタ株が2波として、3波も含め、後2年の2023年迄続くことになります。実際現在の愛知医科大学の専門家も後2年続くでしょうと言っています。
故に、密を避け、マスクは、きっちり二重ほどにして基本の手洗い・うがいと出来れば、家に帰ったら鼻腔洗い、眼玉の水流しと顔の石けん洗いをすると良いと思います。
殺菌効果のあるカテキン豊富な紅茶、日本茶類も活用し、運動を兼ね日光浴、森林浴、念仏瞑想で心身の強化が出来ます。
大村教授と連携した北里大学の研究所
北里大学 大村智記念研究所 感染制御研究センター (kitasato-infection-control.info)
感染創薬学 (kitasato-infection-control.info)
では、種々の医学的情報を公表していますので参考にされると良いです。
弁栄様は、早朝水をかぶり、体を鍛えて病気に対処していましたが、若い時の滝修行で腎臓疾患を所持しており風邪をこじらせて大正9年の12月に遷化されました。スペイン風邪(予防注射?)の影響がひょっとしたらあったかも知れないと想像もします。
弁栄様は、知恩院での大勢集合する別時念仏会では、普通はずっと室内に籠もって修行するのですが、大正9年は、休憩時間に、皆を外に出させ日光浴をさせました。
ビタミンDが体内に生まれ、それがインフルエンザにかかりにくくするからを知っておられたからです。これは、現在のコロナにも言えます。
弁栄生涯の最後2年間弟子だった関大出の書生、柴武三が弁護士となり、90歳の時、弁栄創建の寺での別時念仏会の壇上で重要なお言葉を残しています。
以下が我々の良いアドバイスになります。前回の前半10項目に続く中間の要約の10項目です。
11. 一般の人には、『自覚の曙光』の書物で霊性に気付く。次に『人生の帰趣』
12. 土井晩翠は、当時東北大学で『人生の帰趣』を読み、感銘して同大学の教授までお念仏が広まった。滋賀大学学長も光明主義を広めた。しかし、一代で終わっている。
お寺は、広め易く発展するが、住職次第で2代目住職にはほとんど続かない。故に、ご婦人に広め、子孫に続くようにすることが大事だ。
12.辨榮上人の重要な教えは、「三身即一」、「無明」を初めて説き明かしたことだ。
13. 辨榮上人の教えの真髄で重要な本は、『無量光寿』だ。
14. 辨榮上人の教え、光明主義は、非常に尊い如来光明摂化主義。
15. 辨榮上人が3-4月に「500頁程の本を4冊2ヶ月で書く。それを読みなさい」と話されたことが私との最後の言葉となった。
16.辨榮上人の最後は、風邪がもとで遷化された。私が随行していれば、神様扱いにしなかったので風邪を引かせなかった。今と成っては仕方がないが。
17. 難しいが『無辺光』は、釈尊も誰も書かれなかった根本の書物の一つだ。
18.佐々木・大谷両上人はそうではなかったが、笹本上人や木叉上人は、辨榮上人と面接される時、辨榮上人の部屋に入られなかった。次の間で礼拝されて、物も言わずに帰られた。
私が、どうしてかと笹本上人に聞くと、「覚者は、口に出して質問を聞かなくても相手の質問がちゃんと分っている。口に出して質問せねば相手の考えている質問が分らぬようでは覚者と言えぬ」と答えた。
19. 辨榮上人が私達学生二人に説法中に、佐々木上人が「檀家が辨榮上人の法話を待っています」と入って来ると、辨榮上人は「お前がしてくれ」と言われた。
「どうして法律を学ぶ学生のためだけそんなに熱心にお話するのでしょうか」と佐々木上人が問うと、辨榮上人は「浄土宗に染まった者の染めをぬくには大変エネルギーが要る。しかし、二人は白紙で良く染まるからだ」と言われた。
20. 辨榮上人は大蔵経を買った柴さんに「和訳を読むな。錐で穴をあけ、ひもを通し縛れ。そして漢文のみを読め。読書百篇すれば、必ず分る。不明な点は如来様に教えてもらいなさい。私を頼り過ぎるので私が居ない方が良い」とおっしゃった。
以上
弁栄20歳の修行時代と柴武三弟子の重要な言葉
1879年20歳で僧になった本好きの弁栄は、寺で修行を3年間します。
1879年20歳で僧になった本好きの弁栄は、寺で修行を3年間しますが、本を読みたいため、
仕事の時間以外にも最大限度本を読む時間を作るため、睡眠時間を三時間にして夜中に本を
読みました。以後弁栄は生涯睡眠時間は三時間でした。弟子、柴武三に対して、「四時間の睡眠で足りる」と語っています。
私は、それを知って、凄いことだ。それで良ければ、人生色々なことが出来ると思いました。
弁栄生涯の最後2年で弟子だった柴武三弁護士90歳の弁栄創建の寺での重要なお言葉で
以下が我々の良いアドバイスになります。その前半10項目です。後半は来月載せます。
1. 何事も基本が大事。辨榮上人から何度も基本を教えられた。バイで突かれたことも。
この講話の前の別時で皆さんの称名の声は小さく、木魚の音が主になっている。木魚は、あくまで添え(副)だ。称名の声は大きくする。しかし、大きくなくとも丹田から力を入れて称える。
2.正座は、足の親指を重ね組む。膝の隙間はにぎりこぶし幅。足を投げ出そうがとにかく本堂でお念仏すれば良いという人がいるが、それはだめ。お念仏の仕方を指導する必要がある。
3. 胸と腹は張って、へそと鼻を一直線にする。下腹丹田から声を出す。
4. 聖者は平凡な3時間より、真剣な一時間で区切って礼拝や聖歌を入れる方が良いとおっしゃられた。だらだらや雑念<・居眠り>の念仏では意味がない。夢見や雑念念仏になるなら散歩する方が良い。時間の長さに重きを置くのでなく、質に。
5. S53年5月、善光寺別時の木魚の調子が早い。光明会は打ち込み念仏だ。それをきちっとゆっくりと称えぬと称名のことばが明確に称えられぬ。「ナム」「アミ」「ダブ」と六字分明(はっきり明確に。>印の語は力強く発音している)。私の学生の時は、大木役をよくしたものだ。木魚と称名の音、これらが統一意識を引っ張って行く<定に向かう>。
6. 礼拝儀拝読は、間をあけぬ事。
7. 十二光立ち礼拝は、<胸を張って>そらすように。仏様がいらっしゃると思うこと。男性的に。
8. 念仏には先達が肝心。富士登山なら、お鉢廻り迄出来る先達で。<見仏の経験ある先輩に指導を得る>
9. くれぐれも破邪顕正は、だめ。「あーそう」で。
10. 光明主義に遭えた人は、それなりの因縁があった人、大きな勝縁だ。